連盟のあけぼの
家庭婦人がスポーツをする。それも近所の仲間が集まってみんなでワイワイとバレーボールを楽しむ。
現在では当たり前のことですが、今から50年前の日本では、それはそれは大変なことでした。
現在では当たり前のことですが、今から50年前の日本では、それはそれは大変なことでした。
昭和39年、東京オリンピックが開催されました。それまでのスポーツといえば、学校での体育の授業や一部の竸技選手によって行われるものという意識は強く、あまり一般的ではなかったようにも思えました。
しかし、世界のトップ選手がくり広げる熱戦に、私達はテレビにくぎ付けとなりました。陸上、体操、水泳等数ある競技の中でも「東洋の魔女」と言われた日本女子バレーボールチームの活躍は、今でも忘れることができません。
オリンピックの醒めやらぬ興奮と、また戦後約20年が過ぎ、日本人の生活にも少し余裕が出てきたということもあって、スポーツに対する意識が変わってきました。
そのころ、明石市の教育委員会では、体力づくり、仲間づくりという目的で、だれでも手軽にできるやわらかいゴム製のバレーボールの普及に取り組もうとしていました。ゴムボールならあまり運動に縁がなかった婦人にもできるし、また地域での日常生活の中でも楽しんでもらえるとのねらいから、PTAや婦人会などを対象に普及を図っていました。
昭和42年ごろになって、市バレーボール協会と市教委が中心となり、6人制、9人制のルールを合わせたようなだれでも参加できる明石市家庭バレーボールのルールの基礎がつくられました。
市内で最も早くから取り組んだのは、鳥羽、林、大久保の3地区でした。その後家庭バレーボールの楽しさが理解されるようになり、市内全域へと広がりました。
昭和45年8月に24チームが参加して第1回大会が開かれました。そしてその年の11月には、PTAや婦人会、市教委等家庭バレーボール活動にご理解いただいた関係者の協力とバレーボールを続けたいと願う婦人達の熱意で明石市家庭バレーボール連盟が発足しました。
翌46年には、連合PTA20周年記念のスポーツ大会にこの家庭バレーボールが競技種目として取り上げられたこともあって、 以後急速に各地域でチームが増えました。 その後も活動は盛り上がりをみせ、 婦人の体力づくりのみならず、バレーボールを通して仲間の輪が広がり、地域のコミュニティーづくりにも大きな役割を果たすことになりました。
創立20周年記念誌より